その手に魂が込められていなければ、形は生み出せない。
南フランスにあるラコスト村で、私は先生に出会いました。
石彫彫刻家である先生。
大きく良質な岩で作品を作りたい、という理由から
岩で覆われた、というよりも大きな岩の塊の上にできたこの村に移住した、
とてもパワフルな先生。
作品をつくる時は自分の家が建つ、まさにその岩山を削り出し、
10メーター超えの作品を作っているなんて事もありました。
自分の家が建っている山を削るなんて。。。
80歳越えの先生でしたが、
じゃが芋みたいに分厚くなった指でハンマーを握りしめ、
腰をぐっと落とし体重をかけ、一気に振り下ろす。
当時の私には衝撃に近いような、
感激なのか??とにかく活発な先生に、色々刺激を受けたものです。
先生のアトリエには15~20センチくらいの粘土でできたレプリカが、数百点有りました。
それでもかなりの数捨ててしまいましたと言っていましたが、
若い頃に作ったモノ、と。
毎日最低でも10点は作っていました。
閃きが有っても無くても、常に手を動かしていましたよ。貴女も毎日最低でも10点は作りなさいね。
分かりました。
と実際に手を動かしてみると、それはまあ実に大変なのです。
最初の内は頭の中にある作りたいものから。
段々とごまかしで其れなりに見えるようなモノ、
最終的には、もうよく分からない塊がゴロゴロと出来上がり、
自分自身のような塊が散らばるのです。
あぁなにも考えてないなあ。
あぁ小手先の仕事をしたなあ。
これを生み出すのは全て自分だなあと。
正直イヤになりました、とても。
見たくないモノ、まさに惨敗です。
粘土は量を足すことも引くことも簡単に出来る素材ですから
全ては作り手の、手の中に采配が委ねられるのです。
油断や妥協がそのまま、形となって机に転がっていました。
アトリエに数有るレプリカの中に
1つだけ、奇妙な空気を放つそれが奥の方に有りました。
それは粘土の塊が、両手を挙げてこちらに向け悲鳴を上げているかの様に
私には映りました。
これはですね。
私が毎日手を動かして、どうにかしてでも動かして、
それでもどうしようもなく手が進まなくなってしまったその時に、
込み上げた怒りや悲しみ、苦しみ憎しみ妬み嫉み、
堪えられなくなって、粘土を力いっぱいにひねり上げて、作業台に叩き付けて、両手で力づくに潰したのが其れです。
その粘土は確かに、悲鳴を挙げていました。強い感情の詰まった形。
その粘土には、どうやって入ったの?とバカな質問でもしたいくらい、
先生の魂の宿りを感じたのです。
その手に込められた魂が、
形となって何年も色褪せずにこちらに向かって悲鳴を挙げていました。悲しみや苦しみの先に在るものは、一体何ですか先生。
苦労しないで手に入るものが貴女を幸福で満たしてくれますか、とおっしゃった先生が羨ましいです。
手作業という手段は自分を写す鏡になっていて、その手段は私に合っているのかもしれません。
自分の仕事は自分でこしらえたい。
先生を思い出すと
日々手を動かさずにはいられないのです。